『先代「だるま寿司」大将、35年前の「大送辞」』
2013.03.28卒園式から10日以上経ち、来週からの新年度の準備で、若草幼稚園も忙しい毎日です。ただ、あの日の子ども達の巣立ちの場面、さよならパーティの余韻はまだ残っており、卒園児や保護者の皆さんとの様々な交流の思い出も胸をよぎります。
以前「だるま寿司」さんにたまたま伺った時、現大将の鈴木篤さんから、一枚の紙を見せてもらいました。一目見てとても驚きました。それは、篤さんのお父さんである、先代の故鈴木伸一さんの「大送辞」という文章でした。以前の若草幼稚園では、さよならパーティの時に、保護者が卒園児保護者に対して送辞を送る慣習がありました。園児と一緒にPTAも巣立つお父さん、お母さん、いわば学年を超えてPTA活動を共に頑張ってきた仲間に対して、年中あるいは年少組の保護者が送る惜別の辞でした。ちょうどこの頃、篤さんが年中組園児で、伸一さんにその役割が当たったのでしょう。いや、立候補したのかもしれません。
それにしても、その内容、言い回しが「すごい!」の一言です。若草の楽しかった行事や保護者同士の交流、子育て論、はたまた社会風刺に至るまで、ユーモアたっぷり、情感たっぷりに描かれています。落語に造詣の深かった先代の、見事な口上ぶりです。遠足、芋掘り、ピクニック、運動会、若草の祭典、鳥号、虫号、動物号、かもめ、うぐいす組、森の山などなど、今も変わらない風景がそこにありました。
この時から35年経ちますが、ずっと受け継がれて来ているものがあることを実感します。登場人物は皆違いますが、若草を舞台に過ごす子どもたち、保護者、先生たちの姿、思いには共通するものがあり、私の父が長く訴えてきた「子育ては親も育つ!」の精神、そして底を流れる「ふれあい」の潮流は、変わらずに存在し続けているのではないかと思います。
父が先代とよく飲んでいた頃は、私が中学、高校の多感な時期で、毎晩遅くに帰ってくる父とじっくり話すということはあまりありませんでした。だから、父と伸一さんのつながりに関しては、ほとんど無頓着だったと思います。
昨年、だるま寿司さんの創立75周年記念祝賀会に、女将さんの配慮で私まで呼んでいただきました。そこで初めて先代の生涯に触れる機会を得、その魅力的な人柄と幅広い人脈に感銘を受けました。五十代前半の若さで亡くなった後に、女将さんや三人のお子さんがお店の立て直しの為に、結束して努力してきたことも改めて理解しました。また、父と先代の縁に関しても、女将さん、そして母から詳しく聞くこともできました。
今年は先代が亡くなってから、十七回忌の節目だと聞きます。昨年暮れに私の父も亡くなり、若草の歴史に一つの区切りがつきました。今頃は先代との再会の盃を、毎日のように傾けているのかなと思います。篤さんが20代で受け継いだ伝統の暖簾の重みを、私もこの年になってようやく感じているところであります。
「おもいでのアルバム」(広報「わかくさ」第221号掲載)
2013.03.19卒園式の日、オルゴールを卒園生に贈るのですが、その中の曲は「おもいでのアルバム」です。お家に帰ってオルゴ ールを開いた時、このメロディが流れだし、みんなの集合 写真を眺めていると、なんだか悲しくなって涙を流す子も いるそうです。そんな話を毎年聞きます。
1 いつのことだか おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう うれしかったこと おもしろかったこと いつになっても わすれない
2 春のことです おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう ポカポカお庭で なかよくあそんだ きれいな花も さいていた
3 夏のことです おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう 麦わらぼうしで みんなはだかんぼ お船も見たよ 砂山も
(間奏)
4 秋のことです おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう どんぐり山の ハイキング ラララ 赤い葉っぱも とんでいた
5 冬のことです おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう もみの木かざって メリークリスマス サンタのおじさん わらっていた
6 冬のことです おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう さむい冬の日 あったかいへやで たのしい話 ききました
7 一年中を おもいだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう 桃のお花も きれいに咲いて もうすぐみんなは 一年生
(作詞 増子とし 作曲 本多鉄麿)
歌詞を見てお気づきだと思いますが、冬の歌詞が二つあります。これは、作詞の増子としさん(保育園園長)がクリスチャン、作曲した本多鉄麿さん(幼稚園園長)がお坊さんだったこと、また、幼稚園、保育園の経営母体がお寺やキリスト教会が多いということにも配慮されているからだそうです。昭和三十四年(一九五九年)に発行された増子とし全集(フレーベル館)で、初めてこの歌が発表されました。五十年以上経っても変わらず歌い継がれています。
若草の卒園生は、オルゴールのこの曲を聴いて何を思うのでしょうか?歌声はなくても、メロディを聴いて、この曲に込められた思いを敏感に感じとっているのかなと思います。これまで過ごしてきた幼稚園の園舎、園庭、お世話になった先生、そして、一緒にずっと遊んできたお友だちとの別れの寂しさを、このメロディと集合写真が改めて思い起こさせてくれるのかもしれません。晴れがましい門出の前の、しばしの切なさです。
あんなこと、こんなことあった若草幼稚園を、いつまでも忘れないでください。卒園おめでとうございます。
祈りのリサイクル
2013.03.14今回、3月11日の「2年目のキャンドルナイト」に少し関わることができました。事前の制作活動のお手伝いでしたが、一番嬉しかったのは、お寺の使い古しのろうそくが再生され、カラフルなキャンドルとして生まれ変わったことです。なかなか処理に困っていたものが、震災で亡くなった人々への追悼のメッセージに変わることができたのです。元々のろうそくも、檀家さん達の先祖への供養の象徴であり、いわば形、対象を変えての弔いでした。
同じ意味で、ここ10年以上取り組んでいるものに「お供えの花の堆肥化」活動があります。お彼岸やお盆などで、大量にお墓に供えられる花。以前は焼却していましたが、環境問題のため焼けなくなり、その後は廃棄物として業者に持っていってもらうようになりました。コストはかなりかかるし、何よりも供花がゴミとして運ばれることへの抵抗もありました。
… そこで本堂の裏を耕して畑にし、その肥料として供花を利用することにしました。粉砕機で何千本もの花を細かく砕き、油かすや鶏ふん、米ぬかなどを混ぜると、半年で良質な堆肥に生まれ変わります。今では「すくすく畑」での、何十種類もの野菜の有機無農薬栽培の根幹となり、園児と一緒に自然の摂理を学び、新鮮な作物を収穫し美味しく頂いています。
「ろうそくからキャンドル」、「供花から堆肥」と、亡くなった人々への追悼の気持ちが、そこで終るのではなく、新しい命、精神として受け継がれ、形を変えてまた次代に伝わっていく、それが「祈りのリサイクル」、「命の循環」ですね。
畏敬の念
2013.02.08今年も鬼がたくさん森の山から下りてきて、若草の子ども達に襲いかかりました。その数9頭!ただ怖がらせているようで、子ども達には申し訳ないと思います。でも、それだけではないのです。だいぶ前に「園長のつぶやき」でも書いたのですが、大事なことだと思うので、もう一度こちらで紹介します。今、体罰の問題が取りざたされていますが、それについても考えさせられました。
『いつも腕白で強がり言う子ほど、鬼には弱く、泣いてしまうのですねえ。今回も我々鬼達がホールに現れたとたん、最初は豆を投げつけて頑張っていた子ども達も、もう逃げまどうばかりでした。でも、目に涙をいっぱいためて逃げる子ども達を見てかわいそうになり、ちょっと手加減すると、パンチやキックが飛んでくる場合もあります。特に年長の男の子は、テレビのヒーローになりきってポーズを決めてかかってきますので、こちらもそれに合わせて倒れたりします。勇気を出して鬼と戦ったという気持ちが自信になり、退治したという誇りで大満足の様子。またそこで生き返ると、びっくりして逃げるのですが・・・。
鬼と向き合うことで自分の弱さを思い知らされ、そこにとどまるか乗り越えるかの選択を強いられる、そんな過程を子どもの中に見る思いがします。鬼のように有無を言わさない怖い存在、昔はお父さんであり、近所の頑固爺さんだったり、学校の先生だったりしたと思いますが、最近ではそういう存在がなくなったのかなと思います。私自身もそうですが。
ちょっと話は飛躍しますが、オーストリアの哲学者で教育学者であったルドルフ・シュタイナーは、子どもの時代に、「畏敬の念」を持つことが大切だと言っています。「その対象に対して、内的には近づきたい、一体化したいと切望しつつ、外的には畏れおののいて、一定の距離を保つ」存在が子どもには必要だと言っているのです。
自分には到底届かない存在、姿、あるいは現象に触れた時、人間は「畏敬の念」を感じ、自分の心の内に深い感動を呼び起こし、そしてその存在に対して少しでも近づきたいという強い気持ちがこみ上げ、そこに人間の無限の可能性を実感し、実践していく力になっていくのではないでしょうか。
もちろん鬼に対しては、畏敬の念というよりも恐怖感が先にくるのですが、鬼の持つはかりしれないパワーと絶対的な存在感に子ども達が触れることで、自らの弱気の虫をやっつけるきっかけになってくれれば、若草の鬼達も本望と言えるでしょう』
上記の文を書いたのは4年前です。最近体罰のことがマスコミ等で話題になり、改めて「畏敬の念」を考えました。私が2年間修行した福井県の永平寺でも、体罰の問題はありました。ほとんどが大学を卒業したばかりの若者が約100名上山し、いきなり自由のない規律ある生活を送らなければならないので、そこに有無を言わさない厳しい指導があるのは当然です。古参和尚から、口だけではなく手や足も交えながら、しっかりとルールを叩き込まれました。
しかし、当初体罰を受けて感じるのは、「恐怖の念」であって、「畏敬の念」ではありませんでした。確かに恐怖感で否が応でも戒律、作法を覚えさせられる、お経も早く暗誦できるようになる、等の効果はありました。が、修行に真摯に向き合うというよりも、この恐怖、苦痛から逃れたいという意識が先行していたように感じます。
ただ、それも最初の数ヶ月で、修行生活に慣れてくれば、多少の心の余裕はでき、体罰自体も少なくなりました。あれほど恐れおののいていた古参和尚さんに対しても、次第に尊敬、畏敬の念を感じるようになりました。もちろん、その人の人柄によりましたが。
最初の体を張った厳しい指導は、甘ちゃんの我々に対して、あえて価値観の大転換を迫る登竜門だったのです。しかし、今の永平寺は、我々の頃の体罰のようなものはなく、きちんと時間をかけて丁寧に指導していると聞きます。修行道場でさえ、時代の流れに逆らうことはできません。
修行道場と学校を簡単に比較することはできませんが、今の時代、昔のように有無を言わさない存在と言われるような先生を求めるのは難しいかもしれません。そこをはき違えて体罰に走ってしまえば、「恐怖の念」を抱く生徒が増えるだけで、教育ではないでしょう。
「恐怖の念」と「畏敬の念」、この線引きは容易ではないですが、シュタイナーの言う『その対象に対して、内的には近づきたい、一体化したいと切望しつつ、外的には畏れおののいて、一定の距離を保つ存在』が子どもには必要だと考えると、それは目指すべき先生像でもあるのかなと思います。
以上、幼稚園の園長である自分のことは棚に上げて、勝手なことを書きました。
NPO法人「にこっと」代表、片桐さんの講演会
2013.01.311月19日に行われた酒田地区私立幼稚園PTA連合会の研修会は、NPO法人「にこっと」代表の片桐晃子さんによる講演会でした。講演タイトルは、『笑顔で子育てするための生活術ー「にこっと広場」に集う親子から学んだことー』です。
「にこっと広場」は、親子の遊びの場の提供、一時保育、ベビーシッター派遣、イベント託児等、育児に直接関わる事業を行っています。しかしそれにとどまらず、子育て悩み相談、子育て関連講座、会報・情報誌発行、お母さん達の手作り小物や衣類の販売等、子育てに関して多岐に渡る事業を展開している法人なのです。代表の片桐さんは元若草幼稚園の保護者であり、また、そこで働く職員の方々も若草OBが何人かいて、以前から私自身、にこっとさんに対してとても親しみ深く感じていました。
片桐さんのお話は、過去にも何度か聞いたことがあるのですが、毎回新鮮味があり心温まります。やはり、片桐さんの気さくで情け深い人柄が、お話の随所に感じられるからだと思います。
例えば、初めての子育てに奮闘するお母さん、あるいは酒田に嫁いで日が浅く右も左もわからないお母さん方に対して、親身になって相談に乗ってあげています。さらに、親子の遊びの場や親同士のコミュニケーションの場を提供することで、彼女達にとって身近で心地よい場を確保し、信頼できる友人関係の構築にも寄与しているのです。そして、そんなお母さん方の得意分野を生かし、様々な子育てや趣味に関する講座を開設し、手作りグッズ等の販売(nicomama shop)も手がけています。もはや子育て支援の枠を超え、彼女達の生きがいをも創造していると言えます。
一昨年より、東日本大震災の被災地から酒田に引っ越してきたお母さん達のために、定期的に「おしゃべりお茶会」を開催し、心のケアを図られています。行政ではなかなか手が届かない部分の被災者支援に、大きな力を発揮されているのです。
酒田市からの委託を受け、小規模でスタートしたこの法人が、短期間でこれだけ支持を集めてきた背景には、ハード面ではなく、このようなアイデアに富む人間味あふれたソフトの充実が根本にあったことは言うまでもありません。
片桐さんご自身も我が子が幼い頃に旦那さんを亡くし、それ以来周囲のサポートに支えられながら子育てを行ってきたことを話されました。自らの体験により、人は一人では、そして親子だけでは生きていけないのだということを痛感されています。そして、支えてくれる周囲の人々に感謝し、その恩を他に返してやる、お互いに助け合いながら日々過ごしていくことが、幸せの道につながるのだということを実感し、実践されているのです。
そんな片桐さんの周りには、当初保護者として参加し、その後スタッフやボランティアになって運営に協力しているお母さん達がたくさん集まっています。このように善意の輪が広がり、子育て環境がソフト面でさらに充実してくることが、少子化をはね返し、酒田市の活性化につながる大きな力になるのだろうと強く思いました。貴重なお話ありがとうございました。
ある講師の苦悩
2012.12.18「私は昨日、息子をぶん殴ってしまいました。実は一睡もしていないんです」
ある研修会の席上で、突然講師の先生が発した言葉に、私は衝撃を受けました。この方は、ある施設の長をされています。この施設は、罪を犯し刑務所に服役した人に対して、出所後に宿泊場所や食事を提供したり、就職指導を行い社会復帰を手助けする施設です。更生を誓って社会に戻ったとしても、頼ることのできる人がいなかったり生活環境に恵まれなかったり、あるいは本人に社会生活上の問題があるなどの理由で、すぐに自立更生ができない人がいます。こうした人たちを一定の期間保護し、その円滑な社会復帰を助け、再犯を防止するという重要な役割を担っています。
そんな大切で尊い役割を担う講師の先生が、今にも泣き出しそうな表情で自らの個人的な事情を語りだしたのです。それは、彼も含め施設の職員皆で、被保護者達への指導姿勢について言及している時でした。
「厳しく指導することも必要だが、その人の長所を褒めて伸ばしてやることが大切です。『ピグマリオン効果』と言って、期待を込めれば人は伸びるという心理学的用語もあるのです」と話した後、「でも、そう言いながら、自分自身は全然できていないのです。うちの息子は非行に走り、何度も補導されているのです。昨日も警察から呼び出され、その後ずっと息子と向き合って話をしたけど、ついカッとなり、初めて息子を殴ってしまいました。自分は皆さんに、こうして高い所から何かを教える資格なんてないのです」。
しばらく沈黙が続きました。その後彼は再び落着きを取り戻し、施設の現状について話を続けました。自分自身が取り乱したことを反省したのか、いたって冷静に、淡々とした口調でした。しかし、一瞬のことでしたが、私には彼の苦悩が痛いほど伝わってきました。そして、彼のことを心から応援したくなりました。
このような施設はなくてはならないものですが、いざ建てようとすると付近の住民からは迷惑施設として猛烈な反対運動を起こされます。近所に犯罪歴のある人が暮らすことに対して、誰もが拒否するのです。長い交渉の末やっと建てた後も、被保護者の更生のために日夜奮闘する中、時には彼らが再び犯罪を犯すことで、職員の努力が無に帰することもあります。「人間は変われるのだ」という強い信念のもと、被保護者の更生に向け日々奔走する彼にとって、息子の非行は、まさに足元から自分自身が崩されるような思いがあるのでしょう。内と外、両方でもがき続けなければならない苦悩…。
でも、私は彼にエールを送ります。絶対に息子は更生できると思います。身近でこんな父親の背中を見てれば、人のために一生懸命努力している親父の姿を見ていれば、いつか必ずわかってくれる時が来ると思います。父親を誇りに思い、自らが正しく歩き出す時が来ると。それまではもがき続ける日々かもしれませんが。いつの日か、 彼も息子も試練を乗り越えてほしい。
同時に私は、自分が恥ずかしくなりました。幼稚園の園長、そしてお寺の副住職という立場上、自らを取り繕う自分がいます。理想と現実のギャップに悩みながら、それで良しとしまっている自分がいます。この講師の先生のように、公衆の面前で正直に思いを吐露することに対して、真摯に頭が下がります。
「人は変われるのだ」という言葉は、自分自身肝に銘じていきたいと思います。この講師の先生に、いつかまた会ってみたいです。
塀の中の宇宙
2012.12.0911月29〜30日の2日間、曹洞宗保護司会の研修会が東京で行われました。保護司とは、法務大臣から委嘱されたボランティアで、保護観察官と協力して罪や非行を犯した人に対し、生活上の助言や就労の援助を行い、その更生を手助けする役割を持ちます。研修初日は、首都圏のある刑務所の視察でしたが、非常に印象に残りました。
その刑務所は広大な敷地に建てられ、男性受刑者約千名が服役しております。刑期8年以上の初犯者(重罪初犯者)を収容する刑務所なのですが、驚くべきことに無期懲役が約半数を占めているのです。つまり、ここの服役者は、殺人などの凶悪な犯罪を犯した者が多く、10年、20年は当たり前、中には最長服役期間の50年と、私が生まれる前からここで生活している者も1名おりました。
私達は彼らの独居房が並ぶ廊下に案内され、扉のガラス窓越しから、実際の彼らの日常生活の一端を垣間見ることができました。また、グランドで黙々と走っている姿や野球やサッカーに打ち込んでいる様子も間近で見ました。以前、別の刑務所を視察した時は、服役者の姿を遠くから眺める程度でしたが、今回のように一人一人の顔つきまで把握できるぐらいの距離での視察は初めてでした。その表情からは、凶悪な犯罪に手を染めたという事実は、全くうかがい知ることはできませんでした。
当たり前なのですが、すべてが秩序立っていました。きちんと整理整頓された部屋、工場内での作業工程、そして何よりも、刑務官の指令に一糸乱れず行動する受刑者の姿。それらはもちろん、刑務官の日頃の厳しい指導、監視によって成り立っているものです。しかしただ厳しいだけでなく、時には彼らの悩みにも耳を傾けたりして、信頼を得ることも大切だということです。「威あって猛々しからず、親しみあって馴れず、ただ彼、人たるを知るべし」、この言葉が、刑務官の服役者に対する態度、心情なのでした。
案内していただいた刑務官のかたが、ポツリと言いました。「受刑者は、この塀で囲まれた世界を『宇宙』だと考えるようになる」。「最初の4、5年は娑婆(シャバ)恋しさからなかなか落ち着かない。でもしばらく経つと、この世界が全てと思い、外の世界は存在しないと考える。そして彼らは、自分も含め、服役している者は全て路傍の石と考える」と。路傍の石…、どこにでも転がっていて、取るに足りない、皆同じで個性がない、そんなふうに考えるのだろうか。ここまで自分を客観視できるのか?
思えば私は永平寺の修行中、初めは、この修行が終わる日を毎日指折り数えて逆算し、残りの期間の長さをとても恨めしく思ったものです(たった2年なのですが)。しかし、坐禅と法要と作務の繰り返しの日々を過ごすうちに、厳しいながらもその流れにそって生きていくことで、時間の流れを早く感じるようになりました。それはやはり、この修行にも終わりが来る、自分はいずれ娑婆に出られるのだという確信(と言うよりも希望)があったからだと思います(何しに修行に行ったのか…?)。
一方、服役囚達が自らを路傍の石に例えるのは、獄中で途方もない期間を過ごさなければならない絶望感への自己防衛反応かもしれません。そこには希望はあるとは思えません。もちろん、自らが犯した罪を長い時間をかけてつぐなうのは当然だし、遺族にしてみれば、愛する人の命を奪った者が、この世で生きながらえている事自体が納得できないでしょう。私も、犯罪被害者、そしてその遺族の心情を思うと、軽々しく「更生」という言葉を出すのも忍びないです。
しかし保護司という役割は、自らが受け持つ対象者が例えどんな罪を犯したとしても、社会に出てからの更生をサポートしなければいけません。今回の視察に参加した保護司は、ほとんどが私よりも年配の方々だったので、中にはこの刑務所の受刑者と長く交流(環境調整)している方もいました。いずれ仮釈放になった場合、身柄を受け入れる親族等との調整を図るのです。しかし、調整が最初からうまくいくのは稀で、受刑者との縁を切りたいと考える親族も多いのです。
仮釈放になり社会に出ても、結局適応できず、また罪を犯して刑務所に戻ってくる者も少なからずいるのが現状です。刑務所の中で亡くなってもお骨が親族から引き取られず、共同墓地で密かに埋葬される場合も多いそうです。
以前、獄中で自ら命を絶った受刑者がいました。まだ20代の若者だったそうですが、後日母親がお骨を引き取りに来ました。小さくなった息子の姿を見て、もちろん母親は涙を流しましたが、後でこんな心境も話してくれたそうです。「これまでは毎朝目が覚めるとまず考えるのは、息子が刑務所で過ごしているのだという事でした。これが何十年もずっと続くのだと思うとやりきれなくなる。でも、今は息子は骨になって自分の元に帰ってきた。朝目が覚めても刑務所に想いを馳せることもなくなる。それを思うと、ホッとしている自分がいます」と。犯罪者家族の苦しみも、計り知れないものがあると刑務官は話してくれました。
私はこれまで窃盗や傷害、薬物などの犯罪歴の対象者を何人も保護観察してきましたが、この刑務所のような長期受刑者との接点はまだありません。「塀の中の宇宙」で路傍の石として存在する受刑者に対して、現実世界への帰還を円滑に進めることが、果たして可能なのか疑問に思うところもあります。
しかし、全ての者が仏性を具えているとするならば、罪の軽重を問わず、その者の更生をサポートしていくことが、保護司の役割であることは間違いありません。今回の視察は、その役割と責任の重さをひしひしと感じる研修でありました。
傾聴
2012.11.09傾聴(けいちょう)とは、耳を傾けると書きます。
昨日8日の朝早くに南三陸に向かいました。庄内在住のお坊さん達5名で、被災地の仮設住宅を訪れるためです。私以外は若手僧侶なのですが、自らお願いして彼らの仲間に入れてもらいました。私は恥ずかしながら被災地での活動はまだ三度目で、南三陸は初めてだったのですが、フットワークが軽く志しの高い彼らは、震災後間もなくから炊き出しなどを始め、南三陸を中心に幅広いボランティア活動を行っていました。
今回の活動は仮設住宅に伺い、被災者の皆さんにお茶やお菓子を振る舞うこと(行茶)です。既に震災から一年半が過ぎ、衣食住など生きていく上で最低限のものはある程度足りてはいるので、なぜ今行茶ボランティアなのかと言うことですが、飲食というよりも、話し相手になることが目的なのです。
震災から日が経ち生活面では落ち着いてはいるものの、仮設での快適とはいえない暮らし、家族を失った悲しみや今後の人生の展望など、被災者の胸の内には様々な葛藤が去来していることと思います。そんな方々の言葉に耳を傾け、話し相手になることで少しでも慰めにもなればという思いで行っています。それが、傾聴ボランティアなのです。
集会所に集まった被災者は、男女のお年寄り約20名ほどでした。私達を見ると、「遠くからよく来てくれたね」と皆さん笑顔で迎えてくれました。話し相手を求めているということもありますが、やはり若手のお坊さん達が、これまで何度も足を運んで信頼関係を築いてきた結果でした。初参加の私にまで手を合わせて迎えてもらい、とても申し訳なくありがたい気持ちでした。
最初は世間話がほとんどでしたが、時間が経つにつれ、津波の恐ろしさ、亡くなった家族のことや現在の心情などポツポツと話してくれました。お坊さん相手なので、親族の供養、お寺やお墓のことなどにどうしても話は行きます。もしかして彼らは、先に逝った親族が今どうしているのかを知りたい気持ちがあったのかもしれませんが、それは言葉にしませんでした。たとえ聞かれたとしても、非常にデリケートな部分で、私なりに考えはあるのですが、彼らの慰めになる話が果たしてできたか、自信はありません。
僧侶として、いったい自分は人を救える立場にあるのだろうかと、自問自答してしまいます。生き方が伴って初めて言葉に説得力がでてくるのです。今は耳を傾けることに徹するべきだと思いました。
傾聴はこれからも続けていきたいと思います。
鉄人ドクター川島さん「酒田から被災地に通って」
2012.10.31 10月24日、倫理法人会のモーニングセミナー講師は、年中組保護者の川島実さんでした。講演テーマは「酒田から被災地に通って」です。昨年は全国放送でも彼のドキュメンタリーが何度か取り上げられたので、御存じの方も多いと思います。
トライアスロンや駅伝でチーム若草メンバーとして一緒に汗を流す川島さんですが、本来の彼の姿を自ら語っていただきました。
現在気仙沼の本吉病院の院長を務めている川島さん、家族を酒田に残しての単身赴任です。でも、昨年までは、震災後すぐに現地に医療活動に入り、その後は毎週末3時間かけて、軽トラックで被災地に通う生活を続けていました。本吉病院の医師2人があまりの激務に震災後すぐに辞任したため、その患者さんのために酒田から通い続けたのです。そして現地の患者さんのたっての願いを受け入れ、昨年10月から院長に就任しました。そのあたりの経過を詳しく話していただきました。
また、彼のこれまでの道のりも大変興味深かったです。大学医学部在学中にプロボクサーになり、西日本新人王を取るなど活躍したが、その後なかなか勝てなくなり、どうやって家族を食べさせていこうかと考えた結果米作りに従事した話や、いろいろな人との縁で医者として再出発した話など、波乱万丈の川島さんの人生は、聞いている分にはすごい面白かったです。でも、相当な苦労があったのだろうなと思いますが、彼の明るく前向きなキャラクターで何でも乗り越えてきたのだろうなと感じました。
思えば川島さんと私の出会いもユニークでした。トライアスロンのおしんレースでお互いがゴールした時に知り合ったのですが、私は彼が医者と聞いて、「俺と同じような風貌だなあ。鉄人ドクターもいるんだなあ」と思いました。彼は彼で「園長でお坊さんか。まあ、走る坊さんに悪い人はいないだろ」と、ちょうど長男が翌年から幼稚園に入る頃で、その場で若草への入園を決めたそうです。普通そんな話ないですよね。
彼は性格的に人と関わるのが好きだということで、患者さんとは、診断というよりいろいろな話をするそうです(特にお年寄りとは田んぼの話は盛り上がるそうです)。震災後しばらくは、犠牲になった家族の話を毎日して泣いていた患者さん達も、一周忌を過ぎると涙がピタっと止まった、やはり節目というものは不思議なものだとも語っていました。
現在の医療体制は細分化されていて、お医者さんでも例えば内臓のどの部分担当とか分けられているが、自分は救急医療現場が長かったので、専門家ではないが、その分身体全体を診る、それが老若男女が沢山集まってくる要因ではないかと。そしてスタッフが徐々にそろってきたので、ここを地域医療の教育の拠点にしたいとも仰っていました。
彼が以前語っていたことがあります。「ボクシングも医者も同じエンターテイメントの世界だ」と。「ボクサーは、リング上のパフォーマンスで見に来てくれた観客を楽しませる、医者は来てくれた患者に対して、お互いにコミュニケーションを楽しみ、安心を与えて帰してやる」と。
お年寄りたちに対しての姿勢は、「死はいずれやってくる、でも私はあなたを見捨てない」とのことでした。
あっという間の講演でした。来年は、親子登園日で彼から保護者の皆さんにお話ししていただこうと思います。
デンマークの幸福度
2012.09.27現在デンマーク人のクリストファーが毎日幼稚園に来ています。彼は卒園生でお母さん(日本人)が酒田在住ということで、滞在予定の10月中旬まで、若草幼稚園でお兄さん先生として手伝ってもらっています。イケメンで優しい性格、日本語もペラペラなので、子ども達からも絶大な人気があります。今から16年前、彼がデンマークの幼稚園に通っていた頃に、先生達みんなでデンマークを研修旅行で訪れる機会がありました。首都コペンハーゲンの美しい街並みに感銘を受け、また陽気な人々との交流もでき大変思い出に残る旅行でありました。
デンマークってどんな国なのか、なかなか思い浮かばないと思いますが、クリストファーのお母さんから以前教えてもらったことは、デンマーク人の国民性は「のんびり、ゆっくり、たっぷり」、「人は人、自分は自分」。とても税金が高く(消費税は25%)、社会保障と合わせ国民一人当たりの負担率は約7割にもなるそうです。その分、医療費は無料、大学までの教育費も無料と、国民に対する手厚い社会保障サービスや福祉政策を提供しているのです。
2010年にギャラップ社が発表した「世界の幸福度ランキング」において、155ヵ国中デンマークが1位に輝きました。ちなみに日本は81位でした…。この差はどこから来るのでしょうか?クリストファーが言うには、日本のように経済的に発展はしていないが、子育て支援はもちろん、教育や福祉制度を充実させることで、国が国民一人一人の生活をある程度はきちんと保障してくれるのです。国民はその点で国を信頼しているので、税金がすごく高いとしても不平不満はあまり生じないとのことでした。
さらに職業選択においても、日本のようにただ大学に入るのではなく、将来の夢を早くから考え、高校から専門的に学べるコースの選択が充実しており、また、人生途中での転職も自由で、そのためのセイフティネットもきちんと機能しているとのことです。「のんびり、ゆっくり、たっぷり」の国民性からイメージするに、日本のように受験戦争、出世競争の世界で翻弄されずに、あくせくしないでマイペースで生きている人が多いのでしょう。
決して物質的に豊かではなくとも、仕事も一生懸命しながら、家族も含め自由闊達に人生を謳歌できるライフスタイルが出来上がっているのであれば、それは幸福度を実感することに直結していくのであろうと思います。果たして日本はどうか・・・、考えさせられますね。