なでしこジャパン
2011.07.2523日(土曜日)は、うさぎの夏まつりに参加していただき、どうもありがとうございました。天気に恵まれ、外での活動がたくさんできて良かったです。私はもっぱら泥んこプールで茶色に染まっていました。マリマルモリモリの踊りは、覚えるのにちょっと苦労しましたが、やってみるととても楽しい踊りですね。子ども達も一緒に楽しんでくれたでしょうか。
さて、なでしこジャパン!快挙でしたね。見事金メダル!サッカーのワールドカップで金メダルなんて、男子の世界では夢のまた夢。私も20年以上前にイタリア大会(男子)で現地観戦した経験がありますが(当時は日本チームは出場すらできない時でしたが)、国の威信をかけてピッチ上で戦う試合の白熱した展開、それぞれの国のサポーターの熱狂ぶりに感動した思い出があります。
今回のなでしこジャパンの戦いぶりは本当に驚きでした。以前は男子と比べると迫力や技術面で見劣りしていましたが、今回の日本チームは、まずパスワークが各国から称賛を浴びるほど多彩で、それぞれの選手の役割分担がはっきりし、澤を中心にチームが一つにまとまり、戦術面でも素晴らしかったと思います。
何よりも、決勝の米国戦で見せた、「最後まであきらめない」という姿勢が、スポーツを超え、被災地の人々も含め、我々日本人の今後の人生の指針としても大いに勇気づけられた感がありました。
それに、何といっても佐々木監督のチーム作りの手腕も見逃せませんね。うちも女性の職場なので見習わないといけません。佐々木監督が「私なんか女子寮に閉じ込められているようなもんだ」とのコメントがありましたが、何となく分かります(笑)。
ちなみに「なでしこ」の花言葉は、純愛、無邪気、可憐、貞節…。うちの先生達にぴったりですね…。
毎年園児サッカー大会が、保護者サポーターの熱狂的応援のもと繰り広げられますが、今年度は女子のブロックが大いに盛り上がりそうです。
「なでしこ若草」、可憐に戦ってください。
それでは、次回もお待ちしております。
魔法の質問
2011.07.14昨日(13日)は、文化センターで開催された、マツダミヒロさん(質問家、日本メンタルヘルス協会公認カウンセラー、コーチング部門で発行部数NO.1のメールマガジン「魔法の質問」主催)の講演会に参加しました。酒田市と若草幼稚園の共催だったので、園の保護者(ほとんどがお母さん)からも多数参加いただきました。
講演のタイトルは「子どものやる気と能力を引き出す講座」で、6人で1グループを作り、それぞれにマツダさんが質問を投げかけ、その答えを自分で考え紙に書き、グループ内で発表していくというやり方でした。
最初の質問は、「この講座が終わったら、どんな状態になっていたいですか?」という質問で、私がいたグループでは、「子どもに対して素直におだやかに接することができる」とか、「前向きな気持ち」などの答えが挙がりました。次に「最近、自分でうまくいっていると思うことを3つ書いてください」という問いには、「自分の時間を持つことができている」とか、「思春期の子どもといい関係が何とか築けている」、「夫婦の仲がいい」、「いい本と出会った」、「仕事の段取りがうまくいっている」など、6人それぞれいろんな回答がありました。
このようにマツダさんは、どんどん肯定的な質問を投げかけていくのです。それは、人は足りないところに目がいきがちなので、自分自身あるいはお子さんのできている、うまくいっているところを探し、認めたりほめたりするきっかけにしてほしいとの願いがこめられているのでした。
面白かったのは、「人から言われてうれしいことを、妄想でもいいから(笑)10個書きなさい」との問いです。みんなで「こんなこと書いていいのかしら」と大笑いしながら書いていき、出てきた答えは、「若く見えますね」、「やせていますね」、「お母さんの料理美味しい!」、「センスがいいね」、「あなたと結婚して良かった」、「いつも元気ですね」などなど。そして何と、1人1人に他の5人が次々と、その言われて嬉しいことを言ってあげるのです。私も実際言われてみてとても照れて恥ずかしかったのですが、例えお世辞でも嬉しくなるのです。お子さんに対しても、(何て言われたら嬉しいのだろうなあ~)と日々考えることが大事なのだということでした。
最後に、シャンパンタワーの話がありました。一番上のグラスは自分、2段目は家族、3段目は職場のスタッフや友人、4段目はお客様だとすると、どこからシャンパン(エネルギー)を注ぐか?ということです。仕事一筋の人(父親に多い)は4段目という人もいますが、母親の場合は2段目が多いのではないかと。子どもやだんなさんのために、まず時間と労力を使い、自分のことを後回しにしがちで、そんな一生懸命な母親は、自分のことはさておき、誰かの為に尽くすことが当たり前と思っています。でも、それはすごく疲れるし、どこかでムリをためているということです。
シャンパンタワーは、一番上から満たしてこそ、すべてのグラスにシャンパンが行き渡るので、家族や周囲の人達が潤うためには、てっぺんの自分自身を満たすことが大事だとマツダさんは説きます。
マツダさんの著書「子どもが『やる気』になる質問」の最後にはこう結んであります。「まずは、母親自身が、キラキラして、心から愛とエネルギーに満たされている状態をつくることが、子どもの、そして家族みんなの幸せのためには大事です。『満たされた状態をつくるために、なにができるだろう?』 今日からは、そう考えながら、行動してみませんか」。
大変実りのある講演会でした。
「想定外」を生き抜く力
2011.07.04 先日、山形県の私立幼稚園の設置者、園長研修会が開催されたのですが、その中の研修の一つで「幼稚園おける危機管理」というテーマでパネルディスカッションが行われ、私もパネリストの1人として参加しました。
私は、被災地の幼稚園で園児が犠牲になったケースを取り上げ(話をするのも大変痛ましかったのですが)、今後の地震、津波への教訓として生かしていけるように各園長先生方にお話ししました。
その中で、片田敏孝群馬大教授の「『想定外』を生き抜く力」(月刊「WEDGE」5月号掲載)について簡単に報告したのですが、大変印象に残る記事だったので、こちらで詳しく紹介したいと思います。
岩手県釜石市では、市内の小中学生、ほぼ全員が津波の難を逃れました。生存率は何と99.8パーセント。他の被災地に比べ大変高い割合を示しています。多くの人たちは、これを「奇跡」と呼びました。しかし、そうではなかったのです。「教育」で子どもたちが身につけた対応力が、「想定外」を乗り越えさせたのです。
(以下記事より抜粋)「釜石市の鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校。地震が起きると、壊れてしまった校内放送など聞かずとも、生徒たちは自主的に校庭を駆け抜け、「津波が来るぞ」と叫びながら避難所に指定されていた「ございしょの里」まで移動した。日頃から一緒に避難する訓練を重ねていた、隣接する鵜住居小学校の小学生たちも、後に続いた。
ところが、避難場所の裏手は崖が崩れそうになっていたため、男子生徒がさらに高台へ移ることを提案し、避難した。来た道を振り向くと、津波によって空には、もうもうと土煙が立っていた。その間、幼稚園から逃げてきた幼児たちと遭遇し、ある者は小学生の手を引き、ある者は幼児が乗るベビーカーを押して走った。間もなく、ございしょの里は波にさらわれた。間一髪で高台にたどり着いて事なきを得た。
釜石市街の港近くにある釜石小学校では学期末の短縮授業だったため、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいた。だが、ここでも児童全員が津波から生き残ることができた。
ある小学1年生の男児は、地震発生時に自宅に1人でいたが、学校で教えられていた通り、避難所まで自力で避難した。また、小学6年生の男児は、2年生の弟と2人で自宅にいた。「逃げようよ」という弟をなだめ、自宅の3階まで上り難を逃れた。授業で見たVTRを思い出したからだ。既に自宅周辺は数十センチの水量で、大人でも歩行が困難になっており、自分たちではとても無理だと判断した。彼らは、自分たちの身を自ら守ったのである」(以上記事より抜粋)
三陸地方は歴史的に津波の災害が多いところで、古くから津波に対する対策が取られてきました。過去に多くの死者を出した経験から、高くて長い防潮堤が何十年もかけて造られました。その後大きな津波の被害がなかったことから、住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それでも、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていきました。(結果的に、防潮堤は今回の津波では役に立たなかったわけですが)。
片田教授は、8年前よりこの地で防災教育を行ってきました。しかし最初の頃は、先に挙げた理由で防災教育に無関心な人が多かったそうです。
そこで教授は、子ども達にアンケートをとる作戦を考えました。
「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか?」と質問したところ、ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来るまで家で待つ」というものだったのです。教授はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起きた時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示しました。効果はてきめんで、「我が子のためなら」という思いが、大人達を動かしました。保護者の多大な協力で、子ども達への防災教育が始まりました。
(以下記事より抜粋)「授業では、津波に対するリアリティーを持ってもらうことを最初の目的にした。祖父母から津波の話を聞いているが、自分の身に降りかかる出来事とは思っていなかったからだ。まずは、過去の津波で犠牲になった4041人という数字、そして亡くなった方を遠目に写した白黒の写真など具体的な資料を見せた。さらに、地震発生から逃げる時間が早ければ早いほど死者が減少するというシミュレーション動画を見せるなど視覚的に訴えた。こういった工夫を重ねることで、それまで他人事と思っていた子どもたちの目つきが変わり、授業の中身に真剣に耳を傾けるようになった。
子どもたちには、津波の恐ろしさや特徴だけでなく、実際に避難する際の注意点を教えた。特に重点をおいたのは、その時にできる最善を尽くせということだ。津波は毎回その形を変えて襲ってくる。地震の直後において、どんな津波なのかはわからない。ハザードマップに示された津波より大きいかもしれないし、小さいかもしれない。しかし、どんな津波であっても気にする必要はなく、できることは、その時にでき得る最善の避難をすれば良いということだ。
こうして彼等なりの最善策を探る取り組みが始まった。具体的には、地図に自宅と通学路を書き入れ、避難場所に印をつけて、自分だけの津波避難場所マップを作成させた。マップには、地震が起きたらすぐに行動すること、とにかく高いところへ行くこと、津波は川をかけ上がって内陸部の低い場所にも到達するので海から遠いといって安心しないこと、一度高いところに避難したら降りてこないことなどを記した。
(中略・・・)
防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えたことは、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオにすぎない。最後は、自分で状況を判断し、行動することの大切さを伝えたかった。そうは言っても、子どもたちには不安が残る。だから、どんな津波が来ても助かる方法があると伝えた。それが逃げることだ。
もう一つは、自分の命に責任を持つことだ。三陸地方には、「津波てんでんこ」という昔話が伝えられている。地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでばらばらに、自分の命を守るために1人ですぐ避難し、一家全滅・共倒れを防げという教訓である。私はそこから一歩踏み込み、子どもに対しては「これだけ訓練・準備をしたので、自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」と話した。親に対しては子どもの心配をするなと言っても無理なので、むしろ、「子どもを信頼して、まずは逃げてほしい」と伝えた。(以上記事より抜粋)
今回の大震災に対しては、政府はもちろん、我々市民も、「想定外」という言葉を口にしてしまいます。しかし、災害に対しては、「想定内」は存在しないことも痛感したのではないでしょうか。
防潮堤などの「ハード」は、予想される災害の被害を想定しますが、それ以上の被害に対しては無力です。しかし、災害に対する対応力(ソフト)は、教育しだいで、想定を超えるものに対しても、最善を尽くすことで乗り越えることができるのです。
片田教授の地道な取り組みは、生きていく上での教育の重要性を、文字通り証明した結果になりました。
被災地での供養(寺報「境内と園庭」第34号より)
2011.06.08五月に宮城県のある被災地へ、津波で亡くなった方の供養に行ってきました。その方が酒田出身ということで、全くの偶然で私に供養の依頼があったのですが、現地へ行ってみると、親族の方で私と旧知の方もいらっしゃり、非常に縁を感じました。
供養の依頼をいただいたTさんはまだ若い男性で、今回の津波で奥さんと生後半年のお子さんを失ったのでした。結婚して二年も経たぬうちに、最愛の伴侶と一粒種を亡くすという事実は、本当に痛ましく、遺族の方々の慟哭の中で、静かに読経させていただきました。
テレビや新聞の報道では、被害の甚大さはある意味ひとくくりにして語られることが多く、見ている我々も、一つの大きな災害として感じてしまいます。しかし、今回現地に行き、被災された方々それぞれのご不幸があり、深い悲しみがあるのだということを、改めて実感しました。
今回火葬場に立ち会ったのは、奥さんの供養のためでした。実は、お子さんはまだ見つかっていなかったのです。二人を一緒に見送れないTさん達遺族の胸中を思うと、言葉もありませんでした。しかし、二人の魂は間違いなく一緒にあり、安らかな本来の世界へ共に旅立つところであるということは、私が言わなくてもTさんも理解していると感じました。
このような時に僧侶の私が、付け焼き刃的な仏教の話をしても慰めにもならないだろうし、遺族の方々に、元気を出してとか、早く立ち直ってというようなことは言えません。今は悲しみの時だし、何をおいても、深い悲しみに沈むべき時なのだと思います。
結婚してわずかで、そして生まれてすぐに逝ってしまった奥さんと子ども、この二人には、これからまだまだ大きな、様々な可能性があるはずでした。でも、それらが奪われたからといって、二人の生が無意味だったのではありません。
奥さんは、Tさんと出会うまでの、そしてTさんと結婚してからの短いながらも幸せな人生がありました。その過程で関わったたくさんの人々に影響を与えてきました。お子さんは、この世に生まれてくることで、親になる喜びを両親に与えてくれました。半年間、お父さんとお母さんに大切に育てられる中で、反対に二人を親として育ててきたのです。奥さんとお子さんはそれぞれの役割を果たしたことで、肉親や関わった人から受けた、あるいは与えた愛情や慈悲の心が、いつまでもずっと残り続けるのです。
私は、一人一人の人生とは、はるか昔から絶え間なく流れる海の水のようだと感じています。海の水は蒸発して雲となり、やがて雨や雪となって地上に降りてきます。そして地下水や川の水となって、再び海へと戻ります(今は、海はどうしても津波を連想してしまいますが…)。
水滴のような人間の生も、一度で終わるものではなく、長い歴史の中で、何度も生と滅を繰り返しているのではないかと理解しているのです。その一つの生で、何かの役割を持って生れてきて、その役割を果たして本来の世界に帰っていく。だから、そこに早い遅いはなく、幸、不幸もない。ただひたすら連綿と続く魂の成長の過程が、刻印され残されていくのではないかと…。肉体の死はあっても、命(魂)の死はないのです。
そして、肉親や親しい者同士の魂は、その流れの中で常に行動を共にし、役割を果たすべく、因果に従いながら精進しているのではないかと考えるのです。この関係をソウルメイトあるいは魂の伴侶と呼ばれることもありますが…。
「袖すり合うも他生の縁」の「たしょう」を「多少」と思っている人は多いのですが、正しくは「他生」あるいは「多生」です。道で人とすれ違い、袖が触れ合うようなことでも、それは何度も繰り返された過去の生の縁によるものであるということです。
そう考えれば、Tさん一家はたとえ短い間だったとしても、夫婦としての幸せな時を過ごし、新たな命を授かった喜びを味わうことができたほどの「縁」は、「袖すり合う」どころか、過去に何度も関わって愛情を注ぎ合ったぐらいの深さで結ばれていたのでありましょう。
Tさんには、悲しみから立ち直るにはまだまだ時間がかかります。しかし、どんなに悲しくても、それでも人は生きていかねばなりません。それが遺された者の責任だからです。しかし、そこで歯を食いしばって悲しみに立ち向かうような生き方をするのではなく、深い縁で結ばれている二人の魂に、(またいつか会えるね)と語りかけるような気持ちで過ごしていけば、二人も今後のTさんの人生をずっと見守っていくことができるし、Tさんもその存在を身近に感じ、生きる糧となっていくのではないかと思います。
被災者それぞれに深い悲しみがあるように、生きる希望も被災者それぞれが持っています。復興に向けて踏み出していく動きを決してひとくくりに見るのではなく、一人一人の努力が集結していけるように、我々も応援していかねばならないと考えます。
野菜の苗
2011.05.093月の地震以来、被災地の惨状に心が痛み、また原発などの不安定な状況もあり、気持ちが沈む日が続きましたね。それに加え4月になってもなかなか暖かくならず、今年ほど春の到来を待ち遠しく感じた年もなかったなあと思います。被災地の方々も、暖かい日差しの下で元気を取り戻し、復興に向けて前向きに活動していってほしいと願います。
私にとって、この時期一番ワクワクさせてくれるものが、野菜の苗です。来週年長園児と一緒にすくすく畑に植えるために、私も8日の日曜日に買い出しに出かけました。ホームセンターではたくさんの苗が売り出され、お客さんで賑わっていました。トマトやナス、パプリカ、きゅうり、スイカ、かぼちゃ、ズッキーニ、トウモロコシなどなど夏野菜をいっぱい購入してきました。人気のある野菜はいろいろな品種が所狭しと並べられ、どの苗も魅力的で選択に苦労しました。私はファッションには疎いのですが、女性が洋服を選ぶのに悩む感覚に似ているのですかね??
すくすく畑のスペースや日当たり具合を頭に浮かべ、また、連作障害を防ぐために植え付け場所のローテーションも考慮しながら、どの苗をどこに植えるかなどを考えるのが楽しいのです。苗を植えるだけでなく、風対策で支柱を補強したり、ウリ科の野菜はツルを這わせるためネットをかけたりと、野菜の生長のためいろんな支援作業が必要なのですが、その構想を練るのもまた面白いのです。
植え付けてからは、水やりや草取り、虫対策などいろんな苦労がありますが、次第に大きくなり、園児と共についに収穫を迎える時の喜びは格別で、新鮮な野菜を収穫後すぐに食べて、子ども達とその美味しさを共有できることに感謝します。手をかけて育てれば、報われるものも大きいです。
なんだか子育てにも共通しますね。ご家庭で、お子さんと一緒に野菜を育ててみるのもいいかもしれませんね。
タイムカプセル(広報第3号)
2011.03.18卒園する時に思い出の品を入れたタイムカプセルを大仏さんのお堂に納め、二十歳になった時に取りに来ようという企画は、私が酒田に戻った平成六年度から始まり、昨年度に一回目のオープン式を迎え、今年度で二回目です。
八月の初めの週末に行うこともあり、全国に散らばっている卒園生が皆参加することはできませんが、それでも成長してりっぱになった姿を見せてくれ、先生達も懐かしさで胸がいっぱいになりました。幼い頃の表情そのままで、すぐに「○○くん」、「○○ちゃん!」と声をかけられる子もいれば、あまりにもたくましかったり、また化粧バッチリと流行のファッションのせいか本人に確認しないとわからない子もいたりして、それはそれで楽しい再会の場となりました。
卒園生だけでなく、保護者からも参加していただきました。当時は私も三〇歳そこそこでペエペエでしたが、若さにあふれていたこともあり(?)、子ども達とは毎日泥だらけになって遊び、保護者、特にお父さん達とは夜な夜な熱く語り合った日々を思い出しました。
卒園生はタイムカプセルを開けて、当時友達と一緒に撮った写真、自分が描いた絵や先生からのメッセージ、保護者からの愛情あふれる言葉を見て、感慨深そうに微笑んでいました。ある保護者のメッセージに、「二十歳になったら一緒にお酒を飲もう」と書いてあったのですが、それがその日の懇親会の場で現実のものとなり、親子で楽しそうにグラスを傾けていたのが印象的でした。また、当時のビデオを見た時は、卒園生も保護者も先生も、十五年前と今の自分の姿のギャップに大笑いしていました。
今回卒園する子ども達からも、想い出の品をタイムカプセルに入れてもらいました。これからの長い人生を考えれば幼稚園生活も一瞬の出来事かもしれませんが、大人になって振り返る時に、友達や先生、保護者と楽しく過ごした日々を少しでも懐かしく思い出してくれれば、それだけで十分かなと思います。まだまだ先の話ですが、ぜひ、オープン式には参加してくださいね。卒園生も保護者も。待ってます!
卒園おめでとうございます。
青春時代再び
2010.11.25母校の高校の同窓会が毎年行われるのですが、今年は我々の学年が幹事となり、総会、懇親会全体を取り仕切ることになりました。
何せ20代から90代という幅広い年齢層の同窓生が、数百名も集まるという大規模な会で、きちんと実行委員を組織して、何ヶ月も前から準備しなけれならないような会なのです。
昔から同期会の幹事代表であった私は、今回も当然実行委員長になってしまいました。正直荷が重く面倒で、本番の11月まではまだ間があるからと、春先はのんびりかまえていたのですが、諸先輩方から「早く準備しろ!」とカツを入れられ、7月頃から本格的に動くことになりました。
まずは実行委員の組織作りからで、係としては、総務、会計、会場、企画・進行、名簿、叙勲、職業ガイダンスなど多岐にわたり、それぞれの係長を決め、その下に何人かの同期メンバーを集め、全体で30名ほどの体制でスタートしました。
みんな40代中盤の男女ということで、仕事や家事、子育てで忙しい中、同窓会の準備のために集まるのはなかなか困難でした。しかも幹事学年は、懇親会でのアトラクションや、昔からの伝統である応援団など、オリジナルの企画や練習を伴うものもやらなければならないということで、かなりのプレッシャーがのしかかりました。
しかし、各係長が、自らの分担の仕事に対して責任を持って対処してくれたため、徐々に形が出来てきました。悩んだオリジナル企画は、「ふるさと庄内のお酒」を紹介する事になり、各酒造メーカーをまわった結果、全面協力を頂くことが決まると、一気に歯車が回り出しました。
うちのお寺に、メンバーが時間をやりくりして毎晩のように集合。お酒を紹介する時に着るハッピに、オリジナルのロゴをデザインし貼り付ける作業や、応援団の振り付け練習、参加者の取りまとめなど、本番が近付くにつれて、目が回るような忙しさになってきました。仕事や家事の合間に行うのだから、皆さん心身共にかなりの負担でしたが、なぜかメンバーの表情は生き生きとしてきたのです。
メンバーの一人が呟きました。「まるで、高3の時の文化祭みたいだな」と。参加者が喜んでくれるためにいいものを作りたい、自分達も楽しみたいという思いが、いつしか、28年前にタイムスリップして、文化祭準備に奔走してた時のワクワクした高揚感を覚えるようになったのです。そこからは、皆一致団結して、がむしゃらに突き進みました。
そして迎えた本番当日、同期は90名が集結し、何十年ぶりの再会もあり懐かしさで胸がいっぱい。全体の参加者も400名を超え、ぎっしり満員の嬉しい悲鳴でした。「ふるさと庄内のお酒」の企画も年配の先輩達が大変喜んでくれて大盛況。応援団もびしっと決まり大喝さいを受けました。盛会のうちに懇親会は終了、同期の面々は、青春時代に戻った喜びをかみしめながら、達成感に浸るのでした。
みんな~、まだ会おの~。
「競争社会」から「共存社会」へ
2010.10.18 昨年の5月に、ポール・コールマン氏率いるアースウォーカー一行(地球上を木を植えて歩く人々)が、お寺に一泊しました。私も彼らの話をじっくり聞き大変感銘を受け、翌日県内を一緒に歩いたりして交流を深めました。
その一行の日本人のリーダーが中渓宏一さんという方で、彼と知り合って以来時々彼のブログをのぞいているのですが、今回、非常に内容に共感する記事(7月24日付け)を見つけました。
ここに全文を紹介します。
「~「競争社会」で生き残る教育から「共存社会」で楽しく暮らす教育へワールドシフト!~
なんだかながーくて難しいタイトルですが、これ、僕が最近掲げているテーマです。
「ワールドシフト」とはアーヴィン・ラズロ博士(ブダペストクラブ会長)が提唱しているもの。僕なりの言葉で説明すると、「今、人類は発展の方向性を変えないと、70億人が地球に暮らし続けることは出来ない。だから今までとは違う価値観で生きて行く、生き方をシフト(変える)して行く必要がある。」というもの。
「今までとは違う価値観」なんて言われても具体的な話がないとピンと来ませんよね。
そこで、今日は僕が思う新しい価値観について書いてみます。
これが「競争社会」で生き残る教育から「共存社会」で楽しく暮らす教育へという価値観です。
「競争社会」で生き残る教育。僕はこの教育の真っ只中で育った気がします。1971年生まれ。団塊ジュニア、第二次ベビーブーム。つまり人口がやたら多い僕らの世代は「受験戦争」の真っ只中にいました。
「優秀な大学に入って優良企業に就職して安定した暮らしを獲得する。」サラリーマンの家で育ち、僕はこんな価値観に全く疑問を持たずに生きてきました。
そして自分で言うのも何ですが、それなりに要領の良い僕は、それなりの優良大学に行き、優良企業と言われる某商社に就職が決まりました。
当時付き合っていた彼女に、「商社なんてアマゾンの森林を破壊したりしている業種になんで就きたいの?」と今思えば何とも的を得た指摘を受けていたのですが、その当時の僕は「こんな良い会社に就職決まったんだよ。何言ってるんだ?」と全く聞く耳も持たずに就職。やがてその彼女とは別れることになりました。
晴れて商社マンに。世界を羽ばたくビジネスマンを夢見て商社に入り、インドネシアやチェコ、ポーランド等で計2年半の海外生活をさせてもらいました。そして気が付けば社会人として6年が経った頃、ふとした疑問が僕に生まれ、その疑問はやがてどんどん大きくなります。
この出世競争の先には何があるんだろう。果たして僕が望んでいる世界はこの世界なんだろうか。出生競争に負けて、ある時社会に突然放り出されても僕は生き残る力を蓄えているだろうか。そんなことをあれこれ考えた末に、「地球上の何処でも、どんな時でも生きて行ける人間になりたい。その為に自分の人生を費やして行こう!」という考えに辿り着きました。
そう思い始めると不思議なもので、一生働き続けるつもりで就職した会社に未練は無く、僕は会社を辞めて世界放浪の旅に出ました。先ずは自分自身の見聞を広めよう。地球がどんな星なのか、この目で確かめて感じてみよう。と。
そう地球上の何処でも、どんな時でも生きて行ける人間になるために、先ずは地球のことを知りたくなったんです。
ハリウッド映画を観て、リーバイスの501にコンバースを履いて育った僕にとってアメリカは憧れの国で、学生時代にはやたらとアメリカを旅していましたが、28歳になった僕が目指した先はインドでした。(まぁその前にはやっぱりアメリカに行っていたのですが。)
インドでぼくが見た世界。それは老いも若きも、富める人も貧しい人も、黒い人も白い人も、区別はあるものの、差別が無く、うまく共存している世界でした。半年間インドを放浪するうちに、そんなことを感じました。
そして驚いたのは今も昔も変わらない世界がどっしりと社会に根付いていることでした。僕はたまたま、144年に一度と言われる、ガンジス河での沐浴の祭り、「クンバメラ」に参加したのですが、ガンジス河にただただ沐浴に集まる人達の風景、それは「今は紀元前1000年です。」と言われても納得してしまうような悠久の時間を感じることが出来るものでした。
そんな衝撃を通して、今まで自分が居たサラリーマンの世界、競争社会だけが全てじゃない。むしろこちらの世界にこそこれからを生きて行く為の智慧が眠っているんじゃないかってことを感覚的に感じました。
それから世界放浪を続けた2年後、ぼくは南アフリカで、世界中、地球一周分を歩き、平和の木を植え続ける男、ポールコールマン氏に出逢いました。地球を歩き、木を植える男、通称アースウォーカー。
20世紀に戦争で亡くなった犠牲者1億人の為に1億本の木を植えながら、「人の命だけじゃなくて、自然も奪ってしまう戦争なんてもう止めよう。皆で地球に感謝の気持ちを込めて木を植えよう。」というメッセージと共に地球を歩き、木を植える男。
ぼくの中に、「これだ!」という直感が働き、ぼくはポールと共に1年間、アフリカの大地を歩き、木を植えました。
あれから7年が経ち、「地球を歩く、木を植える」ことは僕のライフワークとなっています。
アフリカ南部、日本各地を歩き、木を植える活動を続けさせてもらう中で、僕の感覚が変わってきました。それを何とか一言で表してみると、地球は、地球上に生きている全てのものを含めて、一つの大きな生命体であるってこと。これを感覚として完全に理解することはまだ出来ないけど、頭の中での理解が後押ししてくれて、その感覚に近づいて来ています。
だから、他人を傷つけること、それはそのまま自分自身を傷つけることになる。その最終形が戦争というもので、自分の敵を倒した処で、結局はその痛手は自分自身に降りかかってくる。だって僕らは「地球」という同じ星、一つの生命体だから。
そんなことを100%感覚で理解できた時、人間は次の文明に進化=ワールドシフト出来るんだと思う。
その為に出来る第一歩。それが教育だと思う。
国語、算数、理科、社会で他の人よりも良い点数を取ると、良い中学、良い高校、良い大学に行ける。そしてその先には良い会社が待っていて、その良い会社で出世競争に生き残ると良い人生が待っている世界。そんな常に「競争」を基礎にした世界には限界があるはず。だって辿って行けば、僕らは「地球」という同じ星に生きる、一つの生命体なのだから。
「競争したってしょうがない。それよりも皆で楽しく、共に暮らして行く智慧を共に分かち合おう。」学校がそんなことを教えてくれる場所になって欲しいです。
僕には2歳半になる息子が居ます。夏にはもう一人、子供が出来ます。この子たちに受けて欲しい教育、それは国語、算数、理科、社会も勿論あるけど、どうやったら美味しい野菜が作れるか。どうやったら電気に頼らなくても豊かな生活が出来るか、どうやって苗木を育てて、どんな風にしてその苗木たちを森に返すことが出来、その結果、美味しい湧き水を守り、森の動物たちと共存することが出来るのか。そんな「自然と共に生きる智慧」も是非、学校で教えて欲しいです。
ぼくはその第一歩として、小学校で木を植える活動を続けています。これは僕のライフワークです。小学校の敷地が森で囲まれていて、森の中には野菜や果物が豊富にあって、子供たちが学校の敷地に小さな地球を感じることが出来る空間。そんな空間の中で子供達が自然と共に豊かに暮らす智慧を学ぶ。そんな学校作りを目指してぼくは一本づつ、小学校で木を植えさせてもらっています。」
中渓さん達は、幼稚園の園庭にも木を植えていってくれました。彼らのこのような地道な活動が、少しずつ世界中の人を巻き込んで、大きな運動になっていければと思います。
「競争社会」から「共存社会」へ・・・いい言葉ですね。若草幼稚園の教育も、こうありたいと思います。
幼稚園の砂場
2010.10.04前回の「園長のつぶやき」の最後の方で、『幼稚園の砂場』について触れましたが、これは、ロバート・フルガムという人が書いた「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ(河出文庫) 」という本(エッセイ集)から引用したものです。彼は、そのエッセイの中でこのように述べています。
『人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか。本当に知っていなくてはならないことをわたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、幼稚園の砂場に埋まっていたのである。わたしはそこで何を学んだろうか。
・何でもみんなで分け合うこと
・ずるをしないこと
・人をぶたないこと
・使ったものはかならずもとのところに戻すこと
・ちらかしたら、自分で後片付けをすること
・人のものに手をださないこと
・誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと
・食事の前には手を洗うこと
・トイレにいったらちゃんと水をながすこと
・焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい
・釣り合いのとれた生活をすること 毎日少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして少し働くこと
・毎日少し昼寝をすること
・おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること
・不思議だなと思う気持ちを大切にすること』
前回の「つぶやき」で、少年鑑別所の視察について書いたのですが、彼ら少年少女の退所時の感想文を見て、この本のことが頭に浮かびました。身体は大人と同じように大きくなっても、心は不安定で未熟な彼ら。しかし、鑑別所で短期間でも規則正しい生活を送るうちに、徐々に何かを理解していくのです。
それは、新たに学ぶということでなく、幼い頃、幼稚園(保育園)の砂場で遊ぶことで自然と会得していったことを、彼ら自身も思い出すことではないでしょうか。
“砂場”を比喩的に使ってますが、遊びの楽しさ、喜びを存分に感じると共に、遊びのルールを知り、友達との関わりにおいて発生する様々なトラブルを経験することで、人格は形成されていく。“人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか”を、幼児期にすでに学んでいて、いくら年をとっても、後は原点であるそこに行きつく(戻る)。思春期になりすべてを否定してしまう少年、少女の心のどこかにも、砂場は残っていて、そこからやり直していくのです。
この本のタイトルほど、すべてを表している作品はないと思います。
少年鑑別所
2010.09.03 昨日は、第3回目のぴょんぴょん広場に参加いただきありがとうございました。史上まれに見る猛暑が続く日々ですが、万里の松原ピクニックはいかがだったでしょうか?お子さん達、体調は崩しませんでしたか?子どもより大人が気をつけないといけないかもしれませんね。
暑い夏は大好きなのですが、雨が全然降らないのには閉口します。早く雨が降って、すくすく畑の野菜達に思いきり水分を吸収してほしいなあと思います。
さて、皆さんが万里の松原にいた頃、私は山形市の少年鑑別所におりました。酒田飽海地区の保護司のメンバー達と一緒に、施設の見学で訪れていたのです。
少年鑑別所は、非行を犯した少年、少女(14~19歳)が、家庭裁判所の審判を受けて少年院などに送致される前に、約3週間前後預けられる所で、身柄を安全に保全するとともに、少年少女の心身の鑑別を行い、非行を犯した原因を探る等の役割を持っています。
私達を迎えてくれた鑑別所の所長は女性の方で、理知的でかつ情熱を持った方でした。親身になって子ども達の更生のために奮闘している様子が伺えました。
彼女によると、最初はどんなに荒れてすさんでいる少年少女でも、所内で皆と同じ服装で、三食きちんと食べ、規則正しい生活を送っていくうちに、だんだん落ち着きを取り戻していくそうです。昔と違って周囲の者にガンを飛ばし食ってかかるような子は減って、人間関係が希薄なまま成長してしまった子達が多くなってきたということです。
私も保護司を務めてから6年程ですが、これまで対象者として接してきた若者達を見ていると、外見は本当にどこにでもいるような感じなのですが、やはり人との関わりにおいて何かが欠落している印象を受けることが多いのです。周りに無関心どころか、自分に対しても期待しない、自尊心がない若者。現代社会のゆがみと言ってしまえば簡単ですが、幼児期から絶え間なく続く社会性を育む過程が、どこかで頓挫してしまっているのかもしれません。
鑑別所内でたった3週間という期間過ごすだけですが、徐々に変わり始める少年少女達。退所する時、彼らはこんな感想を書いていました。
*「自分の生活、非行、被害者のことなどを考えて、自分のしたことはとても許されないことだと思いました。」
*「いろいろな課題に取り組み,自分を見つめ直し、考えや気持ちを整理することができました。」
*「面会と手紙で、お父さんやお母さんと冷静に話をすることができました。親の気持ちがよく分かりました。」
*「早寝早起き、朝・昼・夕の食事をきちんととること、運動をすることは、とても大事なことだと思いました。」
*「礼儀、敬語の使い方、あいさつを教わりました。」
*「今までこんなに字を書いたり本を読んだことはありませんでした。字を覚えました。読書を好きになりました。」
*「部屋の掃除、物の整理整頓、布団たたみなど、ふだん家ではしなかったことを自分でして覚えました。」
*「先生は真剣に話を聞いてくれました。」「僕は素直に話をすることができました。」「先生は僕を分かってくれました。」
*「注意されることはとても有り難いことだと思いました。」
*「家での生活は、本当は幸せだったんだなと感じました。」
こんな風に素直に感想を書ける子達ならば、更生はきっとできるはずです。そして、こんな風に素直に思える気持ち、それは、やっぱり幼稚園の砂場に埋まっているのだと思います。
(「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(河出文庫)ロバートフルガム著より)