山形県 酒田の幼稚園『若草幼稚園』です。
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前園長ブログ

畏敬の念

2013.02.08

  今年も鬼がたくさん森の山から下りてきて、若草の子ども達に襲いかかりました。その数9頭!ただ怖がらせているようで、子ども達には申し訳ないと思います。でも、それだけではないのです。だいぶ前に「園長のつぶやき」でも書いたのですが、大事なことだと思うので、もう一度こちらで紹介します。今、体罰の問題が取りざたされていますが、それについても考えさせられました。

 『いつも腕白で強がり言う子ほど、鬼には弱く、泣いてしまうのですねえ。今回も我々鬼達がホールに現れたとたん、最初は豆を投げつけて頑張っていた子ども達も、もう逃げまどうばかりでした。でも、目に涙をいっぱいためて逃げる子ども達を見てかわいそうになり、ちょっと手加減すると、パンチやキックが飛んでくる場合もあります。特に年長の男の子は、テレビのヒーローになりきってポーズを決めてかかってきますので、こちらもそれに合わせて倒れたりします。勇気を出して鬼と戦ったという気持ちが自信になり、退治したという誇りで大満足の様子。またそこで生き返ると、びっくりして逃げるのですが・・・。

 鬼と向き合うことで自分の弱さを思い知らされ、そこにとどまるか乗り越えるかの選択を強いられる、そんな過程を子どもの中に見る思いがします。鬼のように有無を言わさない怖い存在、昔はお父さんであり、近所の頑固爺さんだったり、学校の先生だったりしたと思いますが、最近ではそういう存在がなくなったのかなと思います。私自身もそうですが。

 ちょっと話は飛躍しますが、オーストリアの哲学者で教育学者であったルドルフ・シュタイナーは、子どもの時代に、「畏敬の念」を持つことが大切だと言っています。「その対象に対して、内的には近づきたい、一体化したいと切望しつつ、外的には畏れおののいて、一定の距離を保つ」存在が子どもには必要だと言っているのです。
 自分には到底届かない存在、姿、あるいは現象に触れた時、人間は「畏敬の念」を感じ、自分の心の内に深い感動を呼び起こし、そしてその存在に対して少しでも近づきたいという強い気持ちがこみ上げ、そこに人間の無限の可能性を実感し、実践していく力になっていくのではないでしょうか。

 もちろん鬼に対しては、畏敬の念というよりも恐怖感が先にくるのですが、鬼の持つはかりしれないパワーと絶対的な存在感に子ども達が触れることで、自らの弱気の虫をやっつけるきっかけになってくれれば、若草の鬼達も本望と言えるでしょう』

 上記の文を書いたのは4年前です。最近体罰のことがマスコミ等で話題になり、改めて「畏敬の念」を考えました。私が2年間修行した福井県の永平寺でも、体罰の問題はありました。ほとんどが大学を卒業したばかりの若者が約100名上山し、いきなり自由のない規律ある生活を送らなければならないので、そこに有無を言わさない厳しい指導があるのは当然です。古参和尚から、口だけではなく手や足も交えながら、しっかりとルールを叩き込まれました。
 しかし、当初体罰を受けて感じるのは、「恐怖の念」であって、「畏敬の念」ではありませんでした。確かに恐怖感で否が応でも戒律、作法を覚えさせられる、お経も早く暗誦できるようになる、等の効果はありました。が、修行に真摯に向き合うというよりも、この恐怖、苦痛から逃れたいという意識が先行していたように感じます。

 ただ、それも最初の数ヶ月で、修行生活に慣れてくれば、多少の心の余裕はでき、体罰自体も少なくなりました。あれほど恐れおののいていた古参和尚さんに対しても、次第に尊敬、畏敬の念を感じるようになりました。もちろん、その人の人柄によりましたが。
 最初の体を張った厳しい指導は、甘ちゃんの我々に対して、あえて価値観の大転換を迫る登竜門だったのです。しかし、今の永平寺は、我々の頃の体罰のようなものはなく、きちんと時間をかけて丁寧に指導していると聞きます。修行道場でさえ、時代の流れに逆らうことはできません。

 修行道場と学校を簡単に比較することはできませんが、今の時代、昔のように有無を言わさない存在と言われるような先生を求めるのは難しいかもしれません。そこをはき違えて体罰に走ってしまえば、「恐怖の念」を抱く生徒が増えるだけで、教育ではないでしょう。
  「恐怖の念」と「畏敬の念」、この線引きは容易ではないですが、シュタイナーの言う『その対象に対して、内的には近づきたい、一体化したいと切望しつつ、外的には畏れおののいて、一定の距離を保つ存在』が子どもには必要だと考えると、それは目指すべき先生像でもあるのかなと思います。

 以上、幼稚園の園長である自分のことは棚に上げて、勝手なことを書きました。

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