夜回り先生
2009.10.10昨日、文化センターで行われた教職員組合主催の講演会に行ってきました。講師は夜回り先生こと水谷修氏です。私は、これまで彼の著書を多数読んでおり、また、保護司として薬物犯罪の受刑者と関わるようになっていたこともあり、水谷先生の話を直接聞く機会を得られたことを大変嬉しく思いました。
講演の冒頭から最後まで、ずっと話に引き込まれる状態で、本当に圧倒されました。
彼が、長年夜回り先生として、深夜に行動している「夜眠らない子ども達」を諭して回り、薬物や売春など未成年が陥りやすい非行の防止に努めるのにとどまらず、罪を犯してしまった若者達の更生にも全力を尽くす生き様を伺い、本当に感銘を受けました。話の内容は本に書いてあることも多かったのですが、間髪を入れずに、次々と様々な事例を直接私達に語りかける状況が、迫力を何倍にもしました。
彼がこれまで受け取った少年、少女からのメールや電話は50万件を超えるそうです。彼はそれらに対して丁寧に対応し、メールや電話で励ましたり、時には直接会って彼らを夜の世界から救ってきました。でも、その中で死んでしまった子達も70人以上もいるということです。
薬物中毒になってダンプに飛び込んだ少年、やっと更生できたのにエイズを発症し、やせ細って死んでいった少女、殺人を犯してしまった者、出産時に、薬物依存のため麻酔が効かず、心臓が持たず亡くなってしまった娘、そんな悲しくて切ない、生々しい出来事を、水谷氏は淡々と語っていきました。
自らの睡眠時間も削り、病気と苦闘しながらも続ける夜回りや救出活動、何が彼をここまでやらせるのか?と思います。彼が言うには、地獄から救い人生のやり直しに向かうことができた少年、少女達から「先生、ありがとう」と言ってもらえることだと。「この感謝の言葉なしには、戦えない戦いである」という表現をされました。
「人は誰かを幸せにするために生まれてきた」、水谷氏は若者に語ります。それを、立ち直った子ども達も理解すると同時に、水谷氏本人もそれを拠りどころにして戦っているのだと思います。
私が保護司として、薬物犯罪の対象者と接している時、彼にこう尋ねたことがあります。「覚せい剤をまた使いたいという誘惑はあるの?」。彼はこう答えました。「あります。使用時のあの気持ち、感覚が突然フラッシュバックのように襲ってきます。もし手元にあればやってしまうかもしれません」。彼にとっては、覚せい剤を「完全にやめた」ということではなく、「その日一日使わずにすんだ」を繰り返して日々生きているのです。一生、薬の誘惑の恐怖から逃れることはできないのです。
それほど恐ろしい薬物に対して、好奇心旺盛な若者がつい手を出してしまい、取り返しのつかない事態になる、これは何も都会だけの傾向ではありません。私もショックでしたが、水谷先生は断言しました。「この酒田でも、市内の学校の生徒から、薬物、リストカットなどの相談が自分の所に来ている、来てない学校は一つもない」。現代のような情報化時代では、田舎の素朴な少年、少女達という定義はあてはまらないのかもしれません。
水谷氏は子どもを責めません。「このような世界を作ってしまったのは大人なんだ。薬を売るのも大人だし、少女の体を買うのも大人だ。我々大人が子ども達の不幸を作っているのだ」と。
水谷先生の話の中で、世界の子ども達にアンケートした事例がありました。「一番居心地が良く、心が安らげる場所は?」。例えばシンガポールでは「家庭」と答えた子が80%で1位、2位が「学校」。他の国の子も「家庭」が一番多く、「学校」もベスト3に入っています。ところが日本では、「家庭」と答えた子は「14%」、「学校」という答えは5位以内にも入っていないのが現状なのです。
一日の大半を過ごす学校は居心地のいい場ではなく、一番身近な存在である家族と一緒にいる家庭も、安らぎの場ではない。まさしく、子ども達の悲しみ、怒り、あきらめは、我々大人に責任があるのだということを思い知らされます。
水谷先生は言います。「神社、仏閣などの宗教的施設では、子ども達は薬物を使う気持ちにはならないだろう、リストカットはしないだろう。なぜなら、古来からの伝統的なものに対して、子ども心にも多少の敬いの気持ちはある。だから、全国の宗教施設に対して、昼間、非行に走る子ども達に対して、建物をオープンしてもらうことを求めている」と。
うちのお寺でも、時々、学校から連絡があり、校則違反を犯して停学になった生徒の受け入れをお願いされることがあります。私は彼らを出来る限り受け入れ、お寺の掃除をしてもらったり、坐禅を組んだり、畑作業を一緒にしたりしています。彼らの心の闇までは共有できませんが、何かに打ち込むことで、感じたり得るものがあればという思いでやってます。しかし、結局はその場かぎりの押しつけになってしまいがちです。そんな中、もっと効果的な方法があることに気づきました。
彼らを、幼稚園の子ども達と触れ合わせることです。何の猜疑心もなく、大きいお兄ちゃんとして慕ってくれる子ども達と関わることで、彼らは思い出すのです。自分も幼少期に、何の屈託もなく遊んでいた時があった、じゃれ合った友だちもいた、けんかもしたけど仲直りできた、優しくいつも自分のことを心配して面倒を見てくれた先生がいた・・・。
もちろん、すべての少年達がこのように思うわけはありませんが、思春期の自分の心を包んでいる固くて刺々しいカバーは、最初からあったわけではないことを実感できる場が、幼稚園だと思います。「人間は善き心を持って生まれてくる」、そこに戻ってほしいし、戻れるのです。
夜回り先生の、自らを犠牲にして子ども達のために日夜努める行動力、気概、正直言って私には到底真似のできる事ではありませんが、お寺と幼稚園を運営している立場の者として、未来を担う子ども達のために、何か役に立てる事があるならばという気持ちは十分にあります。そんなふうに感じることができた講演会でした。主催者の皆さん、ありがとうございました。