かけがえのない記憶(GTA会報)
2007.12.30 僧侶の私は、檀家さん宅にお経を読みに行き、年配の方々とお話することがよくあります。伺った先の家族構成として、お孫さんと同居している三世代家族の他に、祖父母だけ、あるいは伴侶が亡くなり一人暮らしをしておられる方も少なくありません。
そんな方々とお孫さんの話をすると、皆さん目を細めていろいろ語ってくれます。
「孫達がうちに遊びに来てくれるのが、いつも待ち遠しい」、「可愛い孫から『おばあちゃん』と呼ばれるだけで、本当に嬉しい気持ちになる」。
お孫さんが大きくなってくると、「昔はしょっちゅう遊びに来てたけど、中学ぐらいから部活動だの何だのって忙しくなって、今はお年玉もらいに来るぐらいだな」と笑って話されます。
小さくて可愛くて何でも頼ってくれた孫たちが、たくましく成長していくことに頼もしさを感じながらも、次第にじいちゃん、ばあちゃん離れしていくようで、一抹の寂しさも感じてしまうのでしょうね。
子どもは成長するにつれて出会う人も多くなり、変化や刺激に富んだ生活になっていきます。逆に年配の方々は、世事から離れ、安定し、精神的に深みを増していくような人生を送るようになる。両者の接点が、少しずつずれていくのも仕方のないことかもしれません。
でも、その両者の距離が、ぐっと近いものに感じる機会が最近多くなりました。僧侶として参列する葬儀において、亡くなった祖父母に対して孫が弔辞を送ることが増えてきたのです。(現役バリバリの皆さんの会報において、このような事を書いて申し訳ありません)
その弔辞の中心を占めるのが、孫が幼かった時に祖父母から受けた愛情の記憶です。無条件に可愛がってもらった事、一緒に遊んでくれた事、一生懸命お世話してくれた事、当時は当たり前のようで感謝の言葉もなかったけど、今振り返ると、どんなにかけがえのない事だったかを切々と述べています。じいちゃん、ばあちゃん離れしていたはずの孫の心に、しっかりと刻み込まれているのですね。
たとえ弔辞にして口には出さなくとも、旅立ちの場で、孫が祖父母に対して持つ思いは共通しているのではないでしょうか。
そして、亡くなった祖父母の方も、孫に対する愛情は昔も今も変わらないように、自分への温かい気持ちを表す孫に対して、目を細めてその思いを感じながら、彼岸へ渡っていくのだろうと思います。